『ミシェル・フーコー ―構造主義と解釈学を超えて』ヒューバート・L・ドレイファス, ポール・ラビノウ

この妹ブログですがハードル下げないとまったく書けないということがわかってきたのでもう少し割り切りの意識を心がけていきたいと思います。

ということでいつにも増して暇なので一生詰みそうだった本崩し始めました。

ハイデガーとかはほっといてもそのうち読みそうなので、時節柄というわけでもないけど入門書くらいしか読んでなかったフーコーを選択。

ミシェル・フーコー構造主義と解釈学を超えて』ヒューバート・L・ドレイファス, ポール・ラビノウ

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厚いだけあって内容は濃くて面白かった。厚いというか重い。そして本文2段組。

内容はフーコーのほぼ全キャリアが外観できる論考。フーコーがまだ存命中だった1983年出版で、本論では『性の歴史Ⅰ』までの範囲が扱われている。日本版のみの附論としてフーコー自身の小論や没後に書かれた著者らの評論がある。

レベルは高く、最低でも構造主義現象学の基礎知識がないとたぶん読めない。哲学史におけるデカルトからカントへの転回の意義、あとフッサールハイデガーの哲学上の立場の差異くらいは入ってないとむずい。

逆にそれなりにクラシックな大陸哲学に親しんでる場合はフーコーの思想をかなりの部分整理できる。筆致はレトリックに走ったりせず明快で、なおかつ変に噛み砕いて具体的にしたりもしていない。ポストモダンの思想家にありがちだけど、生権力とかエピステーメーとかパノプティコンとか代名詞的な概念だけがふわっとぼんやり覚えてる状態だったので求めてた内容だった。いくら暇でも臨床医学の誕生から順番に崩すのしんどすぎる。

 

★★★

著者がフーコーの思想が展開していく重要な契機に位置づけているのが『知の考古学』で、本書ではここを軸としてフーコーの思想が前期と後期に分かれると見ている。これを扱った第三章と第四章はものっそい精緻な議論が展開されていて正直ちゃんと読めてるかは怪しい。

フーコーは初期の仕事『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』における古い文献を参照先とするアプローチを踏まえ、『知の考古学』においてその方法論を「考古学」として自律的な学問にさせようと企てたが、著者らはそこで限界に突き当たったと見ている。

ここで活きてくるのがタイトルにある構造主義と解釈学。著者らはフーコーは彼自身が「考古学」と呼ぶ方法論によって、すべてを記号の体系に還元する構造主義や、歴史の内部から真理を解放する解釈学(現象学)を乗り越えることにある程度成功したと見ている。この2者につきまとうアポリアは『言葉と物』でフーコー自身によって扱われている(本書第二章)。

このアポリアを乗り越えるためのキーとなるのがフーコーの術語でいう「言説」と呼ばれる領域なわけだけど、著者らはこれを構造主義的に形式化しすぎたことでアポリアが発生していると見ている。そして、それはフーコー自身が『言葉と物』において、カントに端を発して以来哲学に付き纏ってきた「三つの二重体」という類型を反復している。 詳しいことを書いてると長くなるので端折るが、要するに『知の考古学』時点でのフーコーの方法論は、彼自身の思想に意味や有効性をもたせることができない。

著者の書く次のような一節はほぼ紋切型のポストモダン一般への診断とほぼ何も変わっていない。

あらゆるきまじめな言表の真理と意味とをともに括弧に入れるという二重の捻りによって、彼はきまじめな話し手たちの幻想を回避することはできたが、他方、どのような社会的問題がきまじめに取り上げられるべきか、またそれに関して何がなされうるかについて、いかなる評価も提示もできなくなっている。考古学は、沈黙したモニュメントの公正無私な研究として、研究している当のモニュメントのまわりで荒れ狂っている論争のうちへ入っていくことができない。実際、考古学の見地からすれば、モニュメントは最初からずっと無言であった。それらのモニュメントによって生み出された葛藤は、避けようのない神秘的な幻想――考古学者が追い散らすためにのみ加担した幻想――、すなわち、議論するだけの価値があったはずだという幻想の産物である。

これを乗り越えるために導入されるのがニーチェ解釈から生まれた「系譜学」と呼ばれる方法論で、著者は考古学がフッサール現象学に対応するとすれば、系譜学はハイデガーの解釈学(現象学存在論)に対応するとしている。フーコーはここで3つの二重体を乗り越えることを諦め、解釈学的な方法論を取った、というのが著者の主張と見ていいと思われる。またこの転回は1968年5月以降から明らかに見られる差異でもあるという。

この後のフーコーの思想はすべて「権力」が主題となる。代名詞である「生権力」もここで導入される。

『監獄の誕生』では、いわゆる近代の国家が監獄のモデル(有名なパノプティコンもここに位置づけられる)に従って国民を客体化していく過程が、『性の歴史』は逆に性という領域を利用して主体化していく過程が扱われる。

 

★★★

本論で扱われているのはここまでで、この後フーコーエイズ発症から亡くなる直前まで書き続け、出版した『性の歴史Ⅱ』では現代的な権力への抵抗拠点として「自己への配慮」という概念が扱われている、らしい。あとこの辺の本も面白そうなのでもう少ししたら読みたい。吉本隆明ポストモダンの思想家はほぼ関心を示していなかったが唯一フーコーは非常に高い評価をしていた。

内容突っ込んで書いてるといつまで経っても終わらないのでざざざっと流れだけ書いたけど、個別の論点でも面白い話が多い。というか明らかに本領が発揮されているのは文献や歴史など具体例を叩き台にして独特の議論に持っていくところで、本当にユニークな思想家だったんだなぁという印象を受ける。デリダドゥルーズはあれでもやっぱり哲学の「外」に位置づけているのは芸術や文学が多いし思弁的な人だと思う。

逆に社会学的な類縁としてのレヴィ・ストロースマックス・ヴェーバーとの比較もおもしろくてためになる。この比較からしてもフーコーの独自性が強く浮かび上がる。特に何度も言及されるトマス・クーンとの比較が興味深い。読んでいるとクーンのパラダイム論が適当な理解では思いもよらないくらいの深さがあることへの示唆を受ける。

そんなところで久しぶりに思いっきり厚い哲学の本読んだけどやっぱりこの領野でしか得られないものというのがあるなぁというのを久しぶりに実感できて良かったです。